オーケストラがまちにやってきた

 ブルックナーの交響曲が北軽井沢に響き渡ったのは、1968年(昭和43年)8月のことでした。斎藤秀雄さんの門下生、秋山和慶さんの指揮で、桐朋学園オーケストラによって『北軽井沢ミュージックホール』大ホールのこけらおとしが行われました。当時の日本では初めての音楽学生のための夏期合宿施設が本格的に始動したのです。すでに、前年には、分奏室などは完成していましたが、オーケストラが一堂に会して練習する、待望の大ホールが完成したのです。

『北軽井沢ミュージックホール』と名付けられたこの施設は、以来北軽井沢の音楽・文化環境を支える施設として、音楽を学ぶ学生や地域の人々に親しまれています。

 ミュージックホール設立のきっかけは、日本の不世出の音楽教育家、斎藤秀雄さんが開いた音楽を学ぶ子どもたちのための夏の合宿です。夏の暑い都会から離れ、学ぶのに適した涼しい高原で夏期合宿を開きたいと斎藤さんは考えました。

神「山の音楽堂」を完成し給えり こうした考えに共鳴し、土地の提供を申し出て、ホールの建設、運営・管理を中心となって推進したのが、田中泰雄さん、田中テルさんのご夫婦です。ご夫婦に刺激されたかのように、斎藤秀雄さんの教え子、小澤征爾さんやその保護者などが、次々と協力を申し出て、別紙の年表にあるように第1期工事から第4期工事まで4年間かけて、北軽井沢ミュージックホールは整備されました。田中テルさんの『神「山の音楽堂」を完成し給えり』というミュージックホール設立の経緯をまとめた小冊子によると、桐朋学園だけでなく、東大、農工大、女子美大など、多くの音楽を学ぶ学生たちに利用されました。日本で始めての本格的な音楽学生のための夏期合宿施設ということで、マスコミにも注目され、平均で年4、000人近くの学生に利用されました。

小澤征爾理事長が長野原町に寄贈

 建築後15年を経た1982年(昭和57年)、財団法人北軽井沢ミュージックホール代表理事、田中泰雄さんから、長野原町へ土地・施設を寄付したいとの申し出がありました。この頃になるとオーケストラの団員数が増加し、この施設では収容できなくなったことや、設立当初からこの建物の運営・管理にあたっていた田中さん御夫婦の高齢化などから、財団法人を解散し、長野原町に寄付することを決定したのです。

 町は議会との協議の上、この土地・建物の寄贈を受けました。その時の財団法人北軽井沢ミュージックホールの理事長は、若き日に斎藤秀雄さんに師事し、世界的に有名な日本人指揮者となった、小澤征爾さんでした。

 長野原町は、ミュージックホール運営委員会を設置し、管理運営規約を定め、ホールの運営を開始しました。1983年(昭和58年)、この年現在も続いている『長野原町クラシック音楽の夕べ』が外山準さんの主管の下、スタートしました。

 その後は、北軽井沢区民コンサート(寺島尚彦さん)の会場として、あるいは北軽井沢大学村70年祭と連動した区民大学の会場などとして使用されました。しかし建築から40年近くが経ち、老朽化が目立ち、恒例の『長野原町クラシック音楽の夕べ』も、北軽井沢小学校に会場を移して行われました。

再び、音楽・文化の殿堂への復活を!

 このまま取り壊してしまうのかと思われたミュージックホールに、再び光をあてたのはこれまでミュージックホールで活動を続けてきた関係者や、区民の「ホールを存続して地域おこしの核にしたい」という熱意です。さらにそれを後押ししたのが、大島文子さん、大島直子さん姉妹です。文子さんは桐朋学園大学の卒業生で、在学中にミュージックホールで合宿したことがあり、この場所でコンサートやセミナーを開きたいと町に申し入れました。

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2005年(昭和17年)のことです。屋根から雨漏りがするような状態の中、大島さん姉妹は、掃除から雑用まですべて自分たちの手でやりはじめました。このことを知った北軽井沢区民の有志が「この由緒ある建物を管理、保存し、地域活性化を図れないか」と町に要望し、屋根の修繕などの改修が行われました。と同時に「北軽井沢ミュージックホールサポーターズ」(会長:神倉稔さん)というボランティア団体を設立し、ホールの維持管理業務を支えています。

 また、2008年(平成20年)には「北軽井沢ミュージックホールフェスティヴァル実行委員会」を結成、ミュージックホールで行われるコンサートなどの運営・管理やスケジュール調整などを担当しています。

 平成18年度から群馬県の『千客万来支援事業』の指定を受け、長野原町が進めてきたミュージックホールの改修事業も、今年度の駐車場整備などでひとまず終了します。リニューアルされた北軽井沢ミュージックホール、『音楽・文化の殿堂』としての復活への期待が高まっています。

北軽井沢ミュージックホール