ミュージックホール ゆかりの人

斉藤秀雄さん

(さいとうひでおさん・1902年5月23日~1974年9月18日没)

 斎藤秀雄さんは、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育家として活躍し、現代日本のクラシック音楽を支える人材を数多く育てました。1948年に、桐朋学園の音楽系学科開設のきっかけとなる「子供のための音楽教室」を開きました。同学園女子高校音楽科を創設、さらに、同学園短期大学、桐朋学園大学音楽学部の開学に尽力し、桐朋学園音楽部門の一環教育の体制を作りました。
 斎藤さんと北軽井沢との結びつきは、斎藤さんが北軽井沢の『大学村』に別荘をもったことから始まります。その別荘で、音楽コンクールを受ける生徒の夏の特訓を始めました。この頃、斎藤さんは弦楽器や指揮法を教えるほかに、オーケストラを組織し、指揮棒を執られました。次第に参加する生徒が多くなり、別荘では指導しきれなくなり、オーケストラの夏の合宿を北軽井沢小学校(当時は町立第三小学校)を借りて行いました。この北軽井沢小学校の夏の合宿が、北軽井沢ミュージックホール設立へとつながっていきます。(詳細は本文へ)。
 小澤征爾さんや秋山和慶さんら門下生たちが、斎藤さん没後、サイトウ・キネン・オーケストラやサイトウ・キネン・フェスティバル松本を創設しました。日本の音楽を世界に認めさせた偉大な教育者、斎藤秀雄さんにちなむ賞やイベントが数多く行われています。

小澤征爾さん

(おざわせいじさん・1935年9月1日~)

 小澤征爾さんは、世界で活躍する日本人指揮者です。新日本フィルハーモニー交響楽団を創立したり、ボストン交響楽団の音楽監督を務めるなど、国内外で最も有名な日本人指揮者のひとりです。
 小澤さんは、斎藤秀雄さんの門下生で、中学生の頃、斉藤さんの自宅を訪ね、弟子入りをしました。創立された桐朋女子高校音楽科、桐朋学園大学短期大学へ進学し、斉藤さんの厳しい指導を受けました。高校、短大時代は、斎藤さんの内弟子、助手のような存在でした。
 小澤さんは、北軽井沢の斎藤さんの別荘で行われていた夏期特訓にも参加していました。北軽井沢小学校を借りたオーケストラの夏の合宿では、斎藤さんの代わりに指揮を執る小澤さんの姿が見られました。また、校舎を借りたお礼として、合宿の終わりに小学校で行われた演奏会の指揮を小澤さんが執ることもありました。
 短大卒業後、単身ヨーロッパに渡った小澤さんは、国際指揮者コンクールで優勝し、国際的な指揮者としての道を歩み始めました。
 斎藤秀雄さん没後、北軽井沢ミュージックホールの建設に尽力された田中泰雄さん、テルさん御夫婦と親交のあった小澤征爾さんは、財団法人北軽井沢ミュージックホールの理事長に就任します。1983年(昭和58年)1月に北軽井沢ミュージックホールは小澤征爾理事長の下、長野原町へ寄贈されました。

田中 泰雄さん(故人)・田中 テルさん(故人)

(たなかやすおさん・たなかてるさん

 田中泰雄さん、テルさんは御夫婦で、現在北軽井沢ミュージックホールのある場所に、土地をお持ちでした。1964年(昭和39年)頃(一説には1962年・昭和37年頃)、斎藤秀雄さんから教えを受けた田中さんの御子息、泰興(やすおき)さんは、ヴァイオリンの勉強のために、アメリカへ留学していました。夏に息子さんの様子を見に行った田中テルさんは、そのことを北軽井沢の別荘でオーケストラの夏期合宿の指導をしていた斎藤秀雄さんに話しました。「日本にもアメリカのように夏に音楽学生が練習のできる施設がほしいですね。もし必要であれば私たちの土地は喜んで提供します」と田中テルさんは提案されました。
 以前から、夏期合宿の練習場がほしいと思っていた斎藤秀雄さんは、乗り気になり、その年の暮れには音楽堂の設計図まで作り上げていました。ここから、田中さんご夫婦のミュージックホール完成への長い道のりが始まりました。
 日本で初めてとなる音楽学生のための夏期合宿施設ということで、建築業者の選定から、発起人の募集、そして一番の建設費捻出のための募金依頼など、初めて取り組むことばかりで、文字通り『東奔西走』されたようです。

 この間小澤征爾さんのお母さんなどの尽力で実現したチャリティーコンサートの収入などもあり、徐々に資金集めも軌道に乗りました。
 次に、課題であがったのは、財団法人の許可の問題でした。『北軽井沢ミュージックホール』の名称は、この認可の時に名づけられたのです。ぎりぎりで群馬県の許可を受け、1967年(昭和42年)無事祝賀式を迎えたミュジックホールですが、翌年には大ホール、翌々年には宿舎、さらに次の1970年(昭和45年)には食事室などの増築が続きました。この間の建築資金の調達、用地確保、管理・運営などの全般を中心になって行ったのが、田中さんご夫婦です。まさに『北軽井沢ミュージックホール』の『生みの親』であり『育ての親』であるわけです。
 日本初の本格的な夏期音楽研修施設ということで、新聞・テレビなどの注目を集め、年間平均4、000人前後の利用がありました。
 昭和50年代後半になると、オーケストラの団員数が増加し、この施設では十分に対応しきれなくなったこと、設立当初から管理・運営にあたられた田中さんご夫婦の高齢化などがあり、北軽井沢ミュージックホールは、長野原町へ寄贈されることになりました。

外山 準 さん

(とやまひとしさん・1938年6月5日~)

 外山準さんは、東京都生まれの音楽家です。ミュージックホール恒例の「クラシック音楽の夕べ」を第1回から第19回まで主宰されました。
 東京藝術大学を卒業後、同専攻科に進まれ、東京藝術大学及び同大付属高校講師、東京音楽大学講師などを勤められました。専門はピアノで、専門家筋に高い評価を得ている第1級のピアニストです。また、その教授法にも定評があり、芸大、音大時代の教え子からは多くの著名なピアニストを輩出しています。
 外山さんと北軽井沢との関わりは、北軽井沢の別荘に滞在していた外山さんと、湯元利重さん(当時の北軽井沢区長)が親交があり、「長野原町が希望するならば、クラシックの生演奏を聞いてもらう演奏会を開きましょう」ということで、浅間園館長の黒岩孝良さん(当時)から長野原町へ打診があり、決定したものです。財団法人北軽井沢ミュージックホールから、長野原町へ「北軽井沢ミュージックホール」が寄贈された年から「クラシック音楽の夕べ」は毎年継続されています。 この外山さん率いる「アマティ=ツイス室内合奏団」のコンサートは第1回から第19回まで続けられ、入場無料ということもあり、多くの人々にクラシック音楽の素晴らしさを伝えました。
 諸般の事情で、第20回(2003年・平成15年)からは、長野原町が主催し、(財)群馬交響楽団のコンサートに移行しましたが、毎年絶えずコンサートが開かれることで、北軽井沢ミュージックホールの存在をアピールし続けました。

寺島 尚彦 さん(故人)

(てらしまなおひこさん・1930年7月4日~2004年3月23日)

 寺島尚彦さんは、栃木県出身の作詞家・作曲家です。北軽井沢区民コンサートを主宰されました。また、北軽井沢小学校校歌の作曲家(作詞は谷川俊太郎氏)、北軽井沢浅間鬼押し太鼓の『浅間六里ヶ原太鼓』などのオリジナル曲も提供していただきました。
 東京藝術大学作曲科を卒業。洗足学園大学教授を務め、またNHKの「シャープさんフラットさん」「みんなのうた」などの番組に多くの作品を提供しています。特に「♪ざわわ ざわわ~」ではじまる『さとうきび畑』は有名です。
 寺島さんと北軽井沢との関わりは古く、3歳の頃から夏は北軽井沢大学村の別荘で過ごされていました。北軽井沢を「ふるさと」とも語っています。1962年(昭和37年)長野原町立第三小学校(北軽井沢小学校前身)校歌を作曲し、翌38年の文化祭での校歌の発表会に合わせて、小学校を訪問、歌唱指導も行いました。
 区民コンサートは、北軽井沢区民と大学村との交流を深めようと北軽井沢区(萩原美智男区長・当時)などが寺島さんに働きかけ、1997年(平成9年)に第1回が実現したもの。翌年以降は、発足した北軽井沢区民大学の一環として、第8回(2004年・平成16年/~ありがとう寺島尚彦先生~)まで開催されました。また、2004年以降は「北軽井沢秋いちばんコンサート」と改称され、寺島さんの御家族、寺島葉子さん(夫人)、樹子さん(娘)、夕紗子さん(娘)を中心とした洗足学園音楽大学のメンバーらによってコンサートが続けられています。

大島文子さん・大島直子さん

(おおしまあやこさん・おおしまなおこさん
大島文子さん 大島直子さん チャールズ・ナイディック氏

 大島文子さんは、ニューヨーク在住のクラリネット奏者です。大島直子さんは文子さんの実姉で、ピアニストです。
 文子さんは桐朋学園大学の卒業生で、在学中に北軽井沢ミュージックホールを合宿で利用したことがあります。御両親の別荘が北軽井沢にあることもあり、お二人とも北軽井沢ミュージックホールに特別の想いがありました。
 文子さんが長野原町に寄贈されていた北軽井沢ミュージックホールでセミナーを開こうと考え、町に使用許可を申し込んだのは2005年(平成17年)のことでした。
 当時のミュージックホールは、築後40年近くが経ち、老朽化が激しく貸し出しを見合わせるような状況でした。そこで大島直子さんと大島文子さんと文子さんの御主人チャールズ・ナイディックさんが修復の一助になればと、チャリティーコンサートを開きました。これが「セミナーオープニングチャリティーコンサート」、「北軽井沢ミュージックセミナー」の始まりです。この年は、大島さん姉妹が、掃除から雑用まですべて自分たちの手でやっていました。それを知った北軽井沢区民の有志が、自分たちで何か協力することができないかと考え、ミュージックホールの管理・運営をサポートする「北軽井沢ミュージックホールサポーターズ」(会長:神倉稔氏)を立ち上げたのです。
 大島さん姉妹のこうした活動も刺激となり、地区住民や関係者から「ホールを存続して地域おこしの核に」いう要望が寄せられ、長野原町は2006年(平成18年)から、群馬県『千客万来支援事業』の指定を受け、北軽井沢ミュージックホールの改修・保存に取り組んでいます。
 大島さんたちの活動は、北軽井沢ミュージックホール再生の強い後押しとなったわけです。恒例となった「セミナーオープニングチャリティーコンサート」「セミナー受験生コンサート」などを主催されています。

音楽こぼれ話 「きたかる」から生まれたふたつの名曲?

「きたかる」から生まれた名曲といえば、みなさん良くご存知の昭和の名曲『丘を越えて』。日本歌謡曲の中でも、大衆にもっとも広く、永く愛された歌のひとつです。昭和6年に島田芳文作詞、古賀政男作曲、藤山一郎唄というコンビで発売され大ヒット、以来今日まで愛唱されています。作詞者の島田芳文さん(故人1898年~1973年)は『丘を越えて』の詩想を浅間牧場で練られたといわれています。戦後は浅間高原の山麓(北軽井沢)に山荘をつくり、自らの庭に「丘を越えて」の碑を建てて、名作を生んだ若き日を懐かしみ、その舞台である浅間牧場に、その碑が建てられることを望んでいました。
 島田さん没後の1977年(昭和52年)、北軽井沢観光協会の尽力で、浅間牧場の入口近くの小さな丘にこの碑は移築、建立されました。現在は『丘を越えて』の碑として広く人々に親しまれています。
 また、1970年(昭和45年)島田さんは『北軽井沢音頭』を作詞されました。この唄は今でも北軽井沢区民に愛され、夏の「北軽井沢高原まつり」などで踊られています。
 もうひとつ、北軽井沢にちなんだ歌ではないか?といわれているのが、『雪の降るまちを』(1952年〈昭和27年〉/作詞:内村直也/作曲:中田喜直)。この作品はNHKのラジオ劇「えり子とともに」の挿入歌として生まれました。台本が短く、その時間を埋めるために急に作られたものでしたが、放送後の反応がものすごく良く、新たに2番、3番の歌詞がつけられ、歌謡番組で大ヒットとなりました。
 北軽井沢説の出所は、北軽井沢大学村の詩人・作家である岸田衿子さん。というのは、このラジオ劇の脚本家であり、『雪の降るまちを』の作詞者である内村直也さん(故人1909年~1989年)は、北軽井沢大学村の住民であった岸田国士さん(劇作家:故人1890年~1954年ー衿子さんの父)に師事していました。戦後北軽井沢で多くの執筆活動を行った岸田国士さんの別荘に、内村さんも何回となく訪れていました。一説では、旧北軽井沢駅舎前から、白川ゴルフへ向かう道の情景ではないかともいわれています。
 東京出身の内村さんにとっての「雪のまち」のイメージはどこだったのでしょうか‥‥。

北軽井沢ミュージックホール